折りたたみ北京を読んだ
かなり面白い。
折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ 5036)
- 作者:郝 景芳
- 発売日: 2018/02/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
編者のケン・リュウが前文で中国SFとはなにかを説明していて、その中で「中国で書かれたという偏見で片付けられるほど中国SFというものは単純ではない」ということをクドクドと語っているんだけど、このアンソロジーを読んだ限りでは、
「いや、中国SFの魅力は中国を背景しているそのことだろ」
と思ってしまった。
例えば陳楸帆の作品は、香港と深センの間にある廃墟となった高層ビル群が立ち並ぶ村が舞台だったり(それだけで絶対おもしろい)、大学生が政府に動員されて僻地に発生した巨大ネズミを退治する話だったり(文化大革命っぽい)、麗江という高級避暑地で圧倒的な貧富の差を垣間見たり、いかにも中国然とした作品ばかりだ。
これが舞台が日本だったりヨーロッパだったりアメリカでも、これらの作品ににじみ出てくる怪しい魅力は損なわれてしまうと思う。
そういう意味でロシア文学に近くて、現存するディストピア感というのが中国SFの面白みなのだと感じた。
なにせ、中国共産党というビッグブラザーが過去も未来もずっとすぐそばにいるのだから、リアリティは半端じゃない。
空想力で補う前に、下地の段階でかなり上乗せされているな、と感じた。
続く夏笳の「おかゆSF」も、古き良き中国と圧倒的な技術の発展が織りなす人間ドラマが魅力的で、ほんと面白くて泣けるんだけど、やはり中国ならではの面白さだと思う。
普通のノリで孔子が出てくるのはやっぱり味わい深い。
例えば最近の日本のSFで、「舞台が日本だからむちゃくちゃ面白い」「題材を日本にしたから面白みが増した」という特徴がある作品って最近ではほとんど無いんじゃないかな。
小松左京だったり筒井康隆の時代は、日本が沈没してみたり、農協が月に行ってみたり、日本をパスティーシュするシステムとしてのSFだったような気がする。
だけど最近はそういう、SFのSをスペキュレイティブとして、我が国そのものを見つめ直すようなSFは少ない気がする。
最近のものはあまり読んでいないけれど伴名錬の「なめらかな世界と、その敵」(あまり面白くなかった)なんかも、舞台が日本であっても日本が舞台だから面白い、という性質のものではなかった。
- 作者:伴名 練
- 発売日: 2019/08/20
- メディア: 単行本
それはつまり、日本が国として成熟して題材として面白みがなくなってしまったためかもしれない。
昔のロシアや旧ソビエトを題材にしたものは面白いけれど、現ロシアを舞台にした小説を読みたいかと言われるとそうでもないように、ロシアも日本並みに普通になってしまった感がある。
ちょいと前は猫も杓子も東西冷戦ばかりだったけれどロシアもアメリカも割と普通になってしまって、素で扱って面白い、最後に残されたフロンティアが中国なのかもしれない。
例えるならば日本の明治・大正期の文学のように、まだ荒々しく革命の爪痕がそこらかしこに残っているからこそ書ける文学、というか。
そういう意味でも、編者のケン・リュウには悪いけど(それにしてもすごい名前だな、一人ストリートファイターじゃないか)、やっぱり中国現代SFは中国を舞台にしたSFというところに価値があると思う。
そのことを差し引いたとしても十分面白いので、いわば鬼に金棒状態と言える。
1984年を代表とするディストピア小説大好きな人にはぜひお勧めしたい一冊だ。
つぎはケン・リュウの小説を読もうかしらん。