悲しみの電王戦

第1回将棋電王戦、山崎隆之叡王対PONANZAの2番勝負は、PONANZAの2勝0敗で幕を下ろしました。

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今言うのもアレですが、この結果は挑戦者が山崎八段に決定した時から予想していたとおりでした。もしこれが賭けの対象となっていたならば、全財産、とは言わないまでも10万円ぐらいはPONANZAの2勝に賭けていたでしょう。まあ、一方的すぎてオッズがつかないかもしれませんが(^^;)

なぜコンピュータの勝ちを確信していたのか

なぜ勝負が始まる前からそのように断言できるのかといえば、山崎八段の強さとは、いわば「人間の将棋」の強さだと思っているからです。

逆転のメカニズム (マイナビ将棋BOOKS)

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NHK将棋講座の「ちょいワル逆転術」に代表されるように、山崎八段は序盤で失敗したように見えても終盤でひっくり返す技を持っています。

といってもこれは山崎八段に特有の技術ではなく、棋士ならば誰でも扱うもの。怪しい手裏剣を放ってみたり、猛烈な攻めから急に玉を囲ってシフトチェンジしたり、フェイントを織り交ぜて相手の思考を乱すテクニック。羽生さんの「局面の複雑化」という言葉に代表される、一直線では勝てない時に道筋を無数に作って罠を張り巡らせる技の応酬は、トッププロ同士の対局を観戦する上での醍醐味です。

ところが対コンピュータ戦ではそうはいかない。PONANZAほどの強さになると「ちょいワル」からの逆転を絶対に許さないからです。

電王戦第二局、一日目の昼食休憩後、コンピュータの評価値は-300程度を表示していました。ひと昔前のコンピュータ将棋ならば「歩一枚が100点」というぐらいのあいまいなものでしたが、現地特別解説会場にいる千田六段は「300点という点差を縮めることは不可能」という発言をしました。これだけ開いてしまうとこの差を縮めることは難しく、広がらないようにジリジリと戦うしかないとのこと。PONANZAを相手にするということは、それだけ絶望的な将棋になる、ということです。

人間同士の対局であれば「優勢を保ったまま勝ち切ることが一番難しい」と言われるように、劣勢の側が離されずに付いて行けばワンチャンあるものですが、終盤で間違えることのないコンピュータ相手では、逆転は不可能です。
つまり300点という(一見微差に思えるような)差がついた時点で、もはや勝負は決まっていたのです。

対コンピュータ戦術とは

逆転不可能なコンピュータ将棋にも(まだ現時点では)いくつかの穴があり、徹底的な分析によって攻略することが可能でした。過去の電王戦五番勝負では、膨大な練習量によって人間側が勝利を収めています。とはいえ、それも乾坤一擲の大勝負。罠にはまってくれる確率だけを頼りにするほかありません。

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対コンピュータ戦術を選べなかった山崎八段

弟弟子たちは山崎八段に秘策を伝授したそうですが、彼はそれを採用しませんでした。なぜなのかは本人の気持ちの中にしか答えはありませんが、勝手に想像するならば、負けた理由を他人の責任にしたくなかったのではないかと思います。

たとえば想定した局面にPONANZAが誘導されなかったとすれば、しかもその可能性の方が高いのですが、結果は無残なものになったでしょう。

コンピュータの穴をつくために特化された作戦で負けた時に、

「用意していた作戦にはまってくれなかった。運が悪かったです」

と言えるのか。

人間として負けることを選んだ

結果として山崎八段は、自分らしい、人間らしい将棋を指して負けることを選びました。それに対して身内の反応はさんざんで、第一局では青野理事に「本局は残念ながら、山崎叡王のちょっとあまりいい所がなかったという感じの将棋になりました。 」と言われるし、第二局でも谷川会長は「作戦的に損をした」、遠山編集長も「いいところがなかった」と、散々な評価でした。

だけど言っちゃ悪いけどコンピュータ将棋を相手に「いいところがある」ように指すことなんてもはや不可能なのではないかと思うのです。いいところまで持ち込む前に潰されるのがオチなのではないかと。勝とうとするならば泥水をすするような覚悟で対コンピュータ戦術を選ぶしかない。

そして負けるにしても潔ぎのいい負け方が許されるほど甘くないことは、事前貸出によって痛感させられているはず。一番いい負け方を選んだ結果が本局であったもしれないという想像力と、それほどの覚悟でもって戦わなければならない相手だという悲壮感が、上層部には欠けているのではないかと思いました。

将棋とは別のゲーム

橋本八段のこの発言は特に将棋ファンから徹底的に叩かれていますが、個人的には分からなくはない。「人間に勝つための将棋」と「コンピュータに勝つための将棋」は全くの別物だからです。

それは例えば火縄銃と重装騎兵との戦いであり、機関銃陣地に突撃するしかない第一次世界大戦のような状況。


人間力でもって機械と戦わざるを得ないことが、とても悲しい。

ボタンを掛け違えたような電王戦予選、じゃなかった叡王戦

コンピュータ将棋への挑戦権を賭けた叡王戦も、言ってみれば生け贄の羊を選ぶための儀式にしか見えません。段位別予選は段位が高いほど、つまり人間相手の将棋が強いほど枠が広まります。そういった人たちに「人間として死ぬか、機械として勝つか」の二択を突きつけた時に、どちらを選ぶか。

逆に機械に徹して戦うことができる若手の低段者にはその門は狭く、本気で勝ちたいと思っているのかわからない状況です。

こんな年功序列的なシステムを作って人間力が高い棋士を勝ち上がらせて、あげくのはてに「いいところがない」というとは、当事者意識が足りていないんじゃないかな、という気がしてなりません。

公平・平等という幻想

余談になりますが、今年行われる叡王戦には、羽生名人の参戦が決定しています。

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第2期 叡王戦

羽生名人を、言ってみれば電王戦でコンピュータと戦うための「予選」から戦わせるという将棋連盟の決断には失望せざるを得ません。もはや電王戦とは「いつ羽生がコンピュータ将棋に負けるか」を期待するだけのショーになっているのに、「挑戦権を獲得するためには他の棋士と平等に扱わなければならない」という公平な発想でお茶を濁そうという態度は、現状を把握できていないことの証左です。

個人的には羽生名人がコンピュータ将棋と戦うことに、すでに意味は無いと思っています。なぜなら、そこに期待されていることはさきほども書いたとおり、「羽生名人がコンピュータ将棋に負けること」だからです。仮に一度勝ったとしても、負けるまで続けなければ誰も納得しないでしょう。いずれ負けることを期待されている戦いに参加することには意味が無い、そう思っています。

だけど羽生名人を出すことを決定したならば、それが将棋連盟の総意であるならば、今すぐにでも直接対決させるべきなのです。仮に予選で敗退したら? 残念でした、また来年。ですか?

電王戦が何年続くか分かりませんが、コンピュータ将棋は日進月歩で強くなるでしょう。対して羽生名人は、その強さはまだ健在なりとはいえ、生物として老いていくのは避けられない。やるならなるべく早くやろうというのが普通の考えのはず。それを決断できなかったのは「途中で負けたら戦わなくていいし」という逃げの一手のように見えるのです。

悲しみの電王戦

戦争は悲しみと憎しみしか生まないといいますが、電王戦終了後の荒れたTLを見るに、これは人間とコンピュータの戦争なのだという思いを強くしましたね。30年後も同じメンバーで戦うような、人間同士の戦いではああはならない。どちらかが死ぬ戦いだからこそ、熱狂を生む。その影で自分のようなオールドファンは、一つの時代の終わりをじっと見つめていることしかできないのだなあ、と。そんなことを考えた第一期電王戦でした。