9日目

暇なので看護婦さんを観察。ナース服に色分けがあって、赤・白・青と3種類存在する。まるでフランスの国旗のようだ。
赤というかピンク色のナースは最初は準看なのかなと思っていたけど、配膳や清掃の時にしか見かけないので多分看護婦ではないのだろう。ナース風。もしかしたらアルバイトとかパートなのかもしれない。She is almost nurse.
白が通常のナース。スカート(というかワンピース)とズボンの2種類があって、それぞれスカートの人はずっとスカートだし、ズボンの人はかたくなにズボンをはいている。好きな方を選ぶようになっているんだと思うけど、下衆にかんぐってみると比較的見目麗しい感じのナースがスカートをはいているように見える。どういう理由で彼女らがスカートを選びズボンを選んだのか、退院するまでには真相を明らかにしたい。
青は手術用。白がザクだとすると、青はデザートザク的な、局地戦に特化したナースである。とはいえ麻酔科の人は普段から青ナース服で病棟を歩いているので、手術のために着替えて青になるという感じはあまり無い。この前のかわいいナースは青ナースなので病室にいてもまったくお目にかかることができない。とても残念だ。
 
普段はしげしげと観察する機会が無いので、イメージの中の看護婦と隔たりがあって面白い。例えばナースキャップが無いこと。例えばストッキングを履いてないこと。
コサキンで関根さんがうまいっしょクラブ明石英一郎が、退院後にストッキングを差し入れに行ったことを話していたので、ナースといえば白ストッキングのイメージがあった。看護婦が履いているストッキングは普通のものより丈夫で高いんだ、と言っていたことが頭に残っていたんだけど、ここではみんな白い短い靴下をはいている。とはいえ、ここの病院には去年から通っているんだし、イメージと実物とに隔たりがあるというのはおかしな話だ。
見ているのに正しく見えていない。これは無意識下で情報の取捨選択が行われているのだろう。ありとあらゆる目にしたもの、耳にしたものを記憶しようとすれば膨大な記憶量が必要になるから、日常生活における瑣末な事柄は自動的に切り捨てられているのだ。本を読むとき、情報を無意識に排除していることを意識できる。われわれが読書をするとき、一字一句全てを把握して読め進めるということはせず、もう少し大きな単位、文脈とか、文体とかいう大きさで文章を楽しんでいる。読後に全部の内容を覚えているということはなくて、好きなフレーズや、印象に残った場面という形で記憶に残る。しばらくたって再読したときに新たな発見があるのは、無意識下で情報のフィルタリングが行われていることを表す良い証拠だ。最初に読んだ時と違った印象を覚えるのということは、フィルターが自分が成長するのとともに変化し、欲する情報・不要な情報の区別がその当時とは違っているということを表している。
と考えればこの作用、「知りたいと思うことだけを知る」という作用は、フィルタリングというよりは情報を圧縮しているといった方が正しいのかもしれない。音楽を圧縮することを例に出すと、例えばCD1枚に録音する場合、いわゆるCD音質に圧縮すると最大で72分だけ入れることができる。それをさらにMP3で32kbpsまで圧縮すると同じCD1枚で40時間以上の音楽を記録できる。音質は(相当に)劣化するけど、曲自体が損なわれているわけではない。圧縮とは「2コーラス目は削っちゃえ」とか「曲間のトークはいらないよね」というような取捨選択なしに、冗長化することで情報量を少なくしている。僕らが物事を認識するときにもこれと同じように、細かい部分を排除して、文脈として把握しているのだろう。たとえば僕が看護婦を見るとき、そこには実在の看護婦ではなく「記号としての」看護婦を見ている。「看護婦さんにこの薬は食後に飲むように言われた」とさえ記憶していれば、記号ナースと実在ナースにどれだけの細かい部分があっても、忘れてしまって何の問題もない、というわけだ。むしろノイズが失われた方が覚えやすく忘れにくい。
とはいえ、いや、だからこそ、物事を文脈で把握することに慣れている分だけ”生の”出来事に接したときに発見があったり、感動があるのだろう。とはいっても常に圧縮なしに認識し続けようと試みることは不可能だし、むしろふとした拍子に低圧縮で記憶されからこそ感動的なのだ*1と思う。
そう考えると文学というものは、圧縮されている事柄を「解凍すること」から始まっているのかもしれない。記憶するときは無意識のうちに圧縮されてしまうが、解凍は意識的に、作者の独創性を含ませて行うことができる。圧縮によって失われた足りない部分を補ったり、増幅したり、さらに削ったり、作者の視点によって圧縮された事柄を、作者独自の手法によって解凍し、そうして”生の”事象をより感動的に組み上げたり、むしろ事実が無いところから感動を生み出すことさえできる。人間の認識と記憶が不完全であるがゆえに感動が事実からのみ与えられるものではないという事実は、幸運というべきか皮肉というべきか。なかなか難しい問題です。

*1:普段はLPモードで録画してるけど、スガシカオのライブだからSPモードで録画してみたってことと似ている、かも