ケン・リュウの「もののあはれ」を読んだ
ケン・リュウの「紙の動物園」が絶品だったという話を書いた。
- 作者:ケン リュウ
- 発売日: 2017/04/06
- メディア: 文庫
ので、続けて短編集の二つめである「もののあはれ」を読んでみた。
- 作者:ケン リュウ
- 発売日: 2017/05/09
- メディア: 文庫
が、全体的に中国テイストがない作品ばかりなので拍子抜け。期待していた方向性とは違っていた。
これでは、星の数ほどもある「良SF」の中の一作という感じなので、ちょっと消化不良。どれも基本的には面白いんだけどね。
でも、うーん、面白いSFを読みたいだけなんだったらあえてケン・リュウを選ばなくてもいいかもしれないと思ってしまうんだよなあ。
特に表題作の「もののあはれ」はなんと日本を題材としており、しかもその内容がいかにもアメリカ人が好みそうな、パシフィック・リム的な日本人像だったのでモニョモニョした。
こーゆーのをアメリカ系中国人が書くのって、文化の盗用というか文化的ポルノなんでないのかな。
「波」と「トナカイ」はそれぞれ面白かった。
特に十三機兵防衛圏をプレイした後だと、やはりハードSFだと視点が違うな、と思わされる。
十三機兵は地球から遠く離れた星に移住するため、播種船に遺伝子データだけを積み込んで、テラフォーミング終了後にクローンを再生するという手法を取っているけれど、現実と全く区別がつかないVR世界をつくることができて、生前の記憶をアップロードしてその中で暮らせるのであれば、あえて人間の体に戻る必要は無いのではないだろうか、というのが疑問点だったので、ちょうどいいタイミングで読めてよかった。
それにしても、記憶をデータベースにアップロードすることが、死を克服したと本当に言えるのだろうか、とは思っている。
つまり、いま生きている自分とデータになった自分には連続性があるのだろうか、ということ。
新しく生まれ変わった自分にはそれまでの記憶があったとしても、元の肉体が死んで終わってしまうことには変わりはない。
勇者ヴォグ・ランバでは這脳に記憶をコピーすることで生き延びることを選ぶけれどそれは真の意味での「生」ではないし、だからこそ悲しみがある。
- 作者:庄司 創
- 発売日: 2013/01/23
- メディア: コミック
死ななんければ生きられないという、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、という極限の状態でこそ人間のデータ化は行われるのではないか。
そういえば昔MMRで、人間が死んだ後に軽くなるのは「幽子」という粒子が体から離れていくからだ! みたいなことが書かれていて「なるほど」と思った記憶がある。
魂のような意識を司るコアがあって、それが引き継がれることによって初めて「連続性」が成り立つのではないか。
そういう意味ではメトセラ技術で死を乗り越えるのではなくて、新しい体、機械の体やエネルギー体に移り変わって死を乗り越えようというのならば、連続性の確保は例えばテレポーテーションのような形で行われるのかもしれない。
人間の脳も実はクァツオーリ族のように、脳を流れる電流が意識と思考の流れを生んでいるのではないかと仮定する。
それは指紋のように唯一無二で、それを再現することで量子もつれによる完全な意識のテレポーテーションが可能になるかもしれない。
聖火のように、電気刺激のパターンが残り続けているうちは同一の意識が連続しているとすると、場所や媒体だけでなく、時間さえも超越できるかもしれない。
みたいなことを読後につらつらと考えたので、実は「もののあはれ」は名著なのかもしれない。
近いうちに続きも買って読もう。