澁澤龍彦のインセスト観

面白かったのでとりあえず転載。

と、ここまで書いて澁澤龍彦の「インセスト、わがユートピア」(一九七二)という一文を思い出した。彼はその中で「近親相姦=ユートピア」論なるものを提唱している。澁澤はまず、なぜ子どもを作らないかという質問にたいする答えとして、男の子が生まれれば妻の愛情を奪われることになるし、女の子が生まれれば自分の愛情は妻から離れて娘にばかり注がれることになる、「私は妻を愛しておりますから、かかる事態は避けたい」と述べ、さらに次のようにいう。「私にとって、娘という存在は、近親相姦の対象にするためにのみ存在価値を有するものであって近親相姦の禁じられている現実の世界では、娘をもつことの意味はまったくないのである。娘と近親相姦とはぴったり重なり合う概念であって、げんに娘をもちながら、近親相姦を行わないということは、げんに自動車をもちながら、ガレージにしまいっ放しにしておいて、自分ではまったくこれに乗らないことにひとしいのである」。「かつて私はユートピアについて論じたとき、『ユートピアなるものは、なるべく私たち自身の手の届かない永遠の未来に、突き放しておくべきものであって、安直に手にはいるようなテクノクラシーユートピアは、真のユートピアとは似て非なるものだ』と述べたことがあるけれども、私にとって、私自身の『娘』とは、まさにこのユートピアにもひとしいものなのである」(17)。インセストの本質をじつに鋭く衝いている。
澁澤は同じ文章の中で、娘は乗れない自動車だという卓抜した比喩を、「世間には��御苦労さまにも、自分では乗れない自家用車を何台もガレージにしまっておいて、結局、最後には、自動車泥棒に次々に掻っぱらわれるがままになっている父親も多いようである」と結んでいるが、少数ながら、実際にその自動車に乗ってしまった親たちもいる。近親相姦というと、人里離れた山奥に住む、知能が低く貧しい男が娘を犯す、というイメージを抱いている人が多いようだが、少なくとも現在では、近親相姦は貧富の差や教育程度の差とは無関係に起きている。むしろ中産階級に多いという統計もある。
 では、どういう父親が娘とインセストを犯すのか。多くの臨床例から明らかなのは、内向的性格で、社会的に孤立している、あるいは少なくとも孤立感を抱いていることが多い。そういう父親は家族を大切にする、というより家族が彼にとって唯一の拠り所なのである。いっぽう娘のほうはといえば、インセストを引き起こす少女の場合に限らず一般に、思春期にさしかかると、男女関係へのいわば準備をする。「女」としての自分を意識しはじめ、意識的あるいは無意識的に男性にたいしていわばモーションをかける。むろんこれ自体にはなんの罪もない。インセストを起こす父親はいわばそれにのってしまうのである。注目すべきは母親の役割である。母親が父と娘の関係に気づいていながら目をつぶっていたというケースがひじょうに多い。家事を娘に任せていたとか、頻繁に家を留守にして父と娘が二人きりになる機会を提供していたということが多い。そういう母親は、精神的にも経済的にも妻の座を捨てたくない。が、自分の性的魅力に自信がない、あるいはセックスに歓びを感じることができないので、性的パートナーの役割は降りたい。そこで娘を差し出すのである。インセストが発覚すると、父と娘は引き離され、多くの場合それぞれサイコセラピーを受けることになるが、時間をおくと、多くの場合に娘は父親にたいしては許すようになるが、母親にたいしてはいつまでも激しい恨みを抱くことが多いという(18)。
http://www.shosbar.com/works/crit.essays/sakushusareru.html

非常に面白い。今度読んでみよう。