第七官界彷徨

自分の中に潜む乙女心が揺れ動く。

2人の兄と1人の従兄弟が暮らす一軒家に引越してきた小野町子。彼女は第七官、つまり、五感のその先にある第六感のさらにその先にある感覚にひびくような詩を書くことを夢見る少女だった。
登場人物の誰もが誰かに恋をして、そして失恋をする。純粋で美しいこころが、大正時代とは思えぬ軽妙な文体で綴られていく。その最たるものが、植物学者である二番目の兄が書いた研究論文だ。

我ハ曾ツテ一人ノ殊ニ可憐ナル少女ニ眷恋シタルコトアリ

から始まる一遍の抒情詩が、二十日大根の研究論文の序文となっていたりするあたり並のセンスではない。
 
兄たちの恋も素敵なんだけどやはりなんといっても町子の恋について語らざるをえない。従兄弟の三五郎は、町子の髪を切った後、彼女の首筋に接吻をした。

しかし私は机に肱をつき、いまは嘘のように軽くなってしまった私の首を両手で抱え、そして私は接吻というものについて考えたのである。―接吻というものは、こんなに、空気を吸うほどにあたりまえな気もちしかしないものであろうか。ほんとの接吻というのはこんなものではなくて、あとでも何か鮮やかな、たのしかったり苦しかったりする気もちをのこすものではないだろうか。

三五郎は町子に対して恋に落ちかけているのだが、町子はそうではなかった。にもかかわらず三五郎が隣に越してきた女学生と会っている様子を見ると泪が止まらなくなり、

三五郎の恋愛期間はこの後幾日かつづいただけで短く終わった。けれど私はこの期間をただ悲しみの裡に送ったのである。

となるのはどういうことだろうか。この、アンビバレントな心理が女の子なんだろうなあとしみじみと感じいった。もしかしたら大正モダンの女性像が、現代日本においても女性の原風景として息づいているのかもしれないなあ、なんて思ってしまう。
 
だけどこの作品を通じて自分が一番心を揺さぶられたのは、3人の男たちの町子に対する壊れ物を扱うような態度だったかもしれない。一郎も二郎も三五郎も自分勝手な人間なんだけれど、町子に対して彼らなりに紳士的に振舞おうとしているのが面白い。
これが『鹿鳴館』のような気品あふれる作品なら当然かも知れないけど、この奇妙な家族の裡において、神聖にして侵すべからずな態度を、町子のようなただの”ひどく赤いちぢれ毛をもった一人の痩せた娘”に対してとることが、なおのこと少女の神聖性を浮出たせているのかもしれない。
 
80年前の作品なのに古さを感じさせないのは、ユーモアのセンスに、恋愛感情に、少女という存在に対して、あまりに本質をつきすぎているからだろうか。
そのせいで本当は尾崎翠などという女流作家など存在せず、現代の誰か才能ある作家が創作した存在なのではないかと思ってしまうぐらいの凄い作品だった。
 
はてな年間100冊読書クラブ 248/229)
 
3月も末になってこんな良作が入ってくると困るんだよなあ・・・。そろそろ年間ランキングを決定しなければならないというのに。