「かぐや姫の物語」で感じた高畑勲(と宮崎駿)の女性観

封切り日にかぐや姫の物語を見てきた。2時間14分という長尺にも関わらず退屈せずに見られたので、面白くなくはないのだが・・・、という印象だった。
一言で言えば物足りない。もっと新しい解釈や見どころがあるのではないかと期待していたので、原作そのままのストーリーに肩透かしをくらってしまった。
 
ところが家に帰ってネットの評判を見てみると絶賛の嵐だった。

退屈せず、二時間、美術展を眺めるような清々しい気持ちで鑑賞できた。
#かぐや姫の物語 感想その一 (作画印象の面で)美術展 - 旧玖足手帖-日記帳-

 『かぐや姫の物語』はこの「実写映画的迫真性」の歴史からの“卒業”といえる。なぜなら、。そこで体現されるのは「絵画的迫真性」だからだ。
藤津亮太の「只今徐行運転中」:『かぐや姫の物語』に震撼する理由 - livedoor Blog(ブログ)

いや、絵が良かったのには完全同意するんだけど、映画というものはそこだけを見るのだろうか、と思ってしまう。絵が良ければ物語性は度外視なんだろうか。

これは、あきらかに現代を生きる女の話だった。震えた。
『かぐや姫の物語』の、女の物語 - 戦場のガールズ・ライフ

と評している人もいたけれど、ストーリーは(古典なので当然ながら)古臭くて陳腐なものだった。親が決めた結婚に苦しめられる物語なんてこれまでにいくらでもあるし、なんにも抵抗できなくて辛いの!悲しいの!という「弱い生き物としての女」の悲劇だって枚挙にいとまがない。 
 
だけどまあ、そーゆー話が好きな人が多いからこそたくさん似たような話があるわけだし、一般受けはするんだろう。下手に小難しいドラマツルギーなんて追求しちゃったらフツーの人はついて来ないしね~。
と、いうことで結論付けるつもりでいたら、たまたま日曜日に放送されていた「おもひでぽろぽろ」が鬼のように面白かった*1。小学生のころに一度見ただけで、その時は退屈で途中で飽きてしまったんだけど、30代になって見直すとかなり胸にくるものがあった。
そこで、ちょっと侮っていたけれど高畑勲は意外と凄いんじゃないか、と冷静に考え直してみることにした。
 

高畑勲の女性観

自分が見たことがある高畑勲作品は『かぐや姫の物語』『おもひでぽろぽろ』『火垂るの墓』の三本。そこに登場する女性たちにスポットを当てて、彼がどういう風に物語を作っているのか考えてみた。
 

受け取り手としてのかぐや姫

かぐや姫の物語』において、かぐや姫は常に何かを受け取る存在だ。乳をもらい衣服をもらい、「竹の子」という名前をもらい、家屋敷をもらい、新しい名前をもらう。頼みもしないのにいろんなものを与えられ、もしくは与えられようとするのを拒んだりする。
対する男はみな「作り手」だ。作り手たちはいろいろなものをこさえて、かぐや姫からの歓心を得ようとする。たとえ無理難題を言われても、命をかけてまで必至に作り上げようとする。バブル期のミツグ君やアッシー君ばりの活躍だ。
 
逆にかぐや姫は何かを彼らに与えることはしない。ほんとうに欲しいわけではなかったから。
彼女が唯一したことといえば、捨丸の前に現れて「あなたとだったら幸せになれ『た』のに」と、わざわざ過去形で言ったことだけ。「あなたが欲しいといえば私を手に入れることができたのに、もう無理なの、残念ね」とでも言いたげな恨み言を残して去ってしまう。なにかを彼に与えるどころか、むしろ全てを奪って捨て去ってしまいたかったとも思えることを言うのだ。
 
このシーンは映画オリジナルなだけあって、ものすごく露悪的で良いシーンだった。むかし自分をフッた男を見返すために、美人になって同窓会に行くような、ありふれているけどみんなが大好きなシチュエーション。こーゆーところが高畑勲の真髄じゃないのかな、と睨んでいます。

彼女が正しいと解っていても、面倒くさい女だと思わせるように描写されている。これはジワジワと嫌な気持ちになれる。
映画:かぐや姫の物語 感想 島国大和のド畜生

彼女は彼女の倫理観として正しいことをしている。そこが嫌だなと思う人と、わかるわ~と共感する人がいるんだろうな。自分は圧倒的に前者だ。
 

待ち人としての岡嶋タエ子

おもひでぽろぽろ』のタエ子もまた、かぐや姫と非常によく似たメンタリティを持っている。タエ子は欲しいものを欲しいと言えない子どもだった。誰かから与えてもらうことをじっと待っていて、惜しいところで姉や父親によって理不尽に奪われてしまう。無力で悲しい存在だった。欲しがらないように、逆らえないように、従順でいるようにしつけられ、ソフィスティケートされた女性になることを強いられる。
そんな彼女の唯一の抵抗が「結婚しないこと」だった。できないのではなく、しない。無力だけれど気位は高く、美人ではないけれど男から好かれないわけでもないというあたりに視聴者層が目に浮かぶようだけれど、そんなタエ子が最終的に、彼女のことを全部受け止めてくれる物分かりのいい男とくっつくところがクライマックスなあたりに、高畑勲のあざとさを感じてしまう。でも面白かった。
 

男のエゴの犠牲となった節子

火垂るの墓』の主人公は清太ではなく節子なのかもしれない。兄のエゴで連れ回されて死んでしまう、無力でおろかな悲しい存在。悲しいね、悲しいだろう!と共感を呼ぶ使い捨ての装置としての役割だった。
 

高畑勲の女性観

やはり振り返ってみると、高畑勲作品の女性主人公たちはどれも「無力でかなしい」存在であることが分かる。女とは悲しいものだ、誰にも逆らえず、心のうちに悲しみを秘めているようなはかない存在なのだ。
彼女たちに抵抗は許されていない。誰がそんなことを決めたかというと、ほかならぬ彼女自身だ。女だからということを言い訳に、自分で自分を縛っている。そこらへんの女心がわかってるところが人気の秘訣だったのかもしれない。そーゆー女の人が好きな人って多いじゃないですか。
 

宮﨑駿の女性観

ついでにスタジオジブリの双頭の鷲、宮﨑駿の女性像についても考えてみる。
こちらは一目瞭然、例外なく強い女性ばかりだ。彼女らはみな自分の意志で歩き、自分の意見を口にし、自分の道を切り開いていく。ナウシカやサンなどの戦士はもちろん、千やメイのような少女でさえも、たったひとりで戦っている。登場する男たちはみなサポーター役に徹しているか、あるいはポルコとフィオのようにお互いに認め合う存在だ。
 
例えば『かぐや姫の物語』が宮崎アニメの登場人物たちだったらどうなるだろうか。「都の生活が嫌だ」と思ったら十二単を脱ぎ捨てて山に帰っただろう。捨丸の手を取って一緒に逃げただろう。おじいさんとの誤解を解くために努力もしただろうし、男たちを欺くような真似もしなかっただろう。自分が陥っている辛い現実に立ち向かう姿が美しい。戦うなんて理想にすぎないとしても、その姿勢に美しさを感じてしまう。
 

戦う女と戦わない女

風立ちぬ」の美穂子は、一見して病弱な深窓のご令嬢だけれども、彼女もまた戦っている存在だった。死の病という運命に抗って、短い生涯を強く美しく生きようとする。悪い言い方をすればエゴイズムの固まりと言ってもいい。デスマーチしている男のところに会いに来るとか、普通に考えたらはた迷惑な話だ。
だけど次郎は彼女の夢を叶える手助けをすることを選び、その甲斐あって美しいままの姿を彼の記憶に残したまま、綺麗に死ぬことに成功した。
 
この構図は「かぐや姫の物語」のラストシーンと似ているようで全くの対象になっている。美穂子は現実にそれを行なったのであり、かぐや姫はあくまで妄想の中の出来事*2だった。そこがこの二人のヒロインの、100%違うところだ。
現実に対して、積極的にコミットメントすることは「女性らしくない」行為なのかもしれない。
 
自分はどちらかといえば「女性らしくない」戦う女性のほうが好きだし、だから「かぐや姫の物語」の物語が好きになれないという、それだけの話にすぎない。どちらが正しいかといえば、かぐや姫の方がポリティカル・コレクトなんだと思う。
 

細田守の女性観

ついでに飛び火して細田守の場合はどうだろう。ちょうど日曜日に「おおかみこどもの雨と雪」が放映されるけれど、「サマーウォーズ」にしても「時をかける少女」にしても、ヒロインたちはどれも「男によってアイデンティティを与えられた女たち」であるところにこの人の業の深さを感じてしまう(^_^;)
男たちは勝手に死んだりアメリカに行ったり遠い未来に旅だったりして、女は男にまた会える日を信じて銃後を守る。
 

押井守の女性観

攻殻機動隊」を見て分かる通り、人間嫌いが進みすぎて素子を機械や神といった性別を超越した存在にしてしまった。「スカイクロラ」のキルドレは彼にとって絶好の素材だったと思う。
 

そんなわけで

どういう女の人を描いているかで映画監督のことを考えると、作品の好みはどういう女の人が好きかで変わってくるのかもしれない。逆に言うと、どんな映画が好きかでどのような女の人が好きなのかわかってくるかもしれないなあ。

*1:ストーリーというより、圧倒的に書き込まれた昭和の映像に感動したんだけど

*2:かぐや姫が最も激しい表情を見せる、宴を抜けだして山に帰るシーンさえ妄想の中の出来事だった

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