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スカイ・クロラ読了 原作と映画版との違いは

読書

映画『スカイ・クロラ』を見てからいろんな人の感想を読んだけども、ほとんどの人が原作ものだと意識していないことにはすごい違和感があった。押井だからダメだとか、押井だから良いとか、押井守が大好きなのは分かるけど評価軸がブレている気がするのだけどどうか。

スカイ・クロラ

スカイ・クロラ

映画を見終わるまではっ! と温存していた原作をようやく読んだ。
良い。すごく良い。ハードボイルドだけど、完全にはクールになりきれてないような登場人物たちの描き方が良い。やるせない現実を、這うように生きる。
特に良かったのは、主人公の思考と現実の時間の流れにズレが生じたとき、たとえばふとした回想や、ドッグファイト中に一瞬の判断を必要とするときの表現を、散文詩のように書くところ。新鮮だと思うけど、確かに思考の流れとしてはそうかもしれないなと思った。言語化する前はきちんとした文章にする必要がない。そういう意味でちょっと『乳と卵』のことを思い出した。あれも原思考の文章化が独特だったなぁ。
135/200
 
以降は映画版との比較。
やはり、というかこの映画の主目的が『空戦シーンをかっこよく再現すること』であるのは間違いなかった。これについては脳内で再生するよりも200%素晴らしい画であったことは認めたい。
だけど、押井オリジナルの表現が物語をすべて台無しにしてしまったというのも事実。映画を見て主人公らのことを、グロテスクな人間のカリカチュアだと感じたのは、たとえば草薙水素は少女の皮をかぶった娼婦のように、函南優一は無垢な瞳をして淡々と事をこなすロボットのように描かれているのだけど、原作にはそんなことを感じさせる要素は微塵にもなかった。こういう一種『露悪的な』表現は、ショッキングに見せるためには簡単だけど、趣味は悪い。
 
2時間という限られた時間の中で表現する中で、キルドレホムンクルスのように描かなくてはならず、そのせいで感情移入できなくなったのだとしたら、映画という表現方法の限界を感じてしまう。
原作をダイジェストにしたせいで話のつながりがおかしいのでは?という予感は正解。切って張って余計なところに”間”を埋め込んで変にしちゃったな、と再確認。
さらに、今作の特徴的な部分「時間を引き延ばされている間の断片的な思考」が削られているのはもったいない。あれがあってこそのドッグファイトだと思うのだけど、美しい画を見せるのには不純物だと思ったのだろうか。
比べるといろいろもったいない部分が出てきます。
 
ただし、映画オリジナルの展開になってからはすごく良かった。気持ちよい殺され方があるとしたらこれだ!というメッタ撃たれぶり、『俺たちに明日はない』ではないけれど、徹底的なやられっぷりに爽快感さえ覚えました。
原作に準拠したことによる制約のせいで、いろんなところに『映画だから表現できない』という妥協が見受けられたのが一番の残念な点でした。完全オリジナルでストーリーを作っていれば、物語の完成度という点では劣っても、映画としてはまだ良い出来になったのでは。
 
そんなわけで、映画全体としては微妙な出来だったけど*1、原作を読むなら見るべきところは結構あるかな、というのが総合的な感想でした。
ぶつくさ文句を言ってる人も、盲目的に「すげーよ押井さん」と言ってる人も、まずは森博嗣の原作を読んでみて欲しいです。

*1:映画館で見た、観客全員の呆然とした顔を忘れない(笑)