違和感

たけくまメモでポニョ論が書かれてました。
パンダとポニョ(1): たけくまメモ
パンダとポニョ(2): たけくまメモ
パンダとポニョ(3): たけくまメモ
要約すると、

ポニョは宮崎駿という特異な存在が作り出した、映画界では異常な存在。
シナリオはイミフだし、売れる理由は誰も分からないけどとにかく売れるから真似すんな!

という話でした。
分かると言えば分かるんですが、どうにも解せないのがパンダのように「誰でも分かる」ものが良く、「オチもなく難解」なものがダメだとされているところです。
 
普通に考えれば、目新しい筋もギミックも背景世界もなく予定調和で終わってしまう物語に”存在意義はない”とはずです。素晴らしい作品というのは他のどの作品にも無い/どの作者にも出せない特殊性を持っているわけです。それは村上春樹にしても、フィッツジェラルドにしても、レイモンド・チャンドラーにしても同じ。
本だけに限らず、絵(マンガ)だって音楽だって独創性、一種の異常性が求められるのは一緒です。なのに映画だけが、誰でも分かるような毒にも薬にもならないものが良いとされているのは何故なんでしょうか。
 
多分、お金がいっぱい絡んでいるからなのかな。作品が世に出るまでにたくさんの人とお金が必要とされるから、もちろんその中には作品の善し悪しなんてどうでもいい人も混ざってくるので、面白さよりも金になるか、という面が重視されるんだろうね。
だから自分は映画(特に実写)なんて学芸会か政治ショーであって、純粋に作品の面白みを求めて見ると「ヌルい」表現方法であると思っているのだけど、映画評論家からすると逆にポニョのことを

その意味では非常に権力的な作品ですな。
人の親として『崖の上のポニョ』で許せないこと - 映画評論家町山智浩アメリカ日記

という評価になるのが興味深い。権力的で独善的でない作品にどんな面白さがあるのか自分には分からないけれど、映画人というのはそういうものらしいです。